シーソー

2005年6月24日 エッセイ
最近、公園でシーソーを見かけなくなった。
危険が伴う遊戯器械は街から行政によって撤去されたのであろう。
それは正しい判断である。
人間、今まで普通に存在していたものが消えると少し寂しく感じる。
まあ、それは置いといて。
シーソーゲームというミスチルの曲があるように、シーソーは人と人との駆け引きを抽象化したものとして、考えることもできる。
特に恋というものは、まさにシーソーなのかもしれない。
体重をかけ過ぎては、相手ばかりが宙に浮かび上がり、地に足をつけることができず、不安にさせてしまう。
そして、ずっと地に足をつけた側は、シーソーの醍醐味である浮力と、落ちる時のスリルを味わうことができない。

動きあってこそのシーソー遊び。
動きあってこその恋。
そんな感じなのかな。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索