いつでも、そうであったように僕はやりたい事を同時進行で進めている。
よって、なかなか行き届かない面がある。
その典型が、「詩の蒼い風」の活動だ。
6年目にきて、停止状態。
あくまで、長い充電期間なので、完全停止ではないのですが、なかなか自分のスタイルというものが見えないのです。
限定して言うと、普遍性に徹するべきか、パーソナルな言葉から普遍性を伝えるべきなのか、という問題です。
昔はひたすら普遍性、もしくは、パーソナルな面を普遍性という膜で包み隠していたのです。
僕はそこに疑問を感じるようになったのです。
小説というある種のパーソナルな言葉が、人に共感や感動を与えるように、僕という個人の物語や、心に生きているフィクションを綴るというスタイルで詩を創作できたら、と強く思っています。
☆追記☆
あれこれ、考えつつも結局のところ、普遍性がどうのこうのなんて、どうでも良い話なのです。
別に、これで僕の生活の糧やスタイルが変わるわけではないので。
ただ、このように、今は一文にもならない思索を巡らすことが可能だという事実に感謝したいと思います。
世の中には無駄な思考も許されないくらいに困窮した人々がいるのも事実ですし。
そもそも、ブログで思いのままに書いてる事自体が贅沢な行為なのかもしれませんね。
よって、なかなか行き届かない面がある。
その典型が、「詩の蒼い風」の活動だ。
6年目にきて、停止状態。
あくまで、長い充電期間なので、完全停止ではないのですが、なかなか自分のスタイルというものが見えないのです。
限定して言うと、普遍性に徹するべきか、パーソナルな言葉から普遍性を伝えるべきなのか、という問題です。
昔はひたすら普遍性、もしくは、パーソナルな面を普遍性という膜で包み隠していたのです。
僕はそこに疑問を感じるようになったのです。
小説というある種のパーソナルな言葉が、人に共感や感動を与えるように、僕という個人の物語や、心に生きているフィクションを綴るというスタイルで詩を創作できたら、と強く思っています。
☆追記☆
あれこれ、考えつつも結局のところ、普遍性がどうのこうのなんて、どうでも良い話なのです。
別に、これで僕の生活の糧やスタイルが変わるわけではないので。
ただ、このように、今は一文にもならない思索を巡らすことが可能だという事実に感謝したいと思います。
世の中には無駄な思考も許されないくらいに困窮した人々がいるのも事実ですし。
そもそも、ブログで思いのままに書いてる事自体が贅沢な行為なのかもしれませんね。
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